ここ1週間の間に3つの講演会に参加した。
ひとつは「アッキレ・カスティリオーニの仕事を読む」と題された多木陽介さんの講演。
あとふたつは、ブルーノ・ムナーリのご子息のアルベルト・ムナーリさんの子どもの城で行われた講演と汐留クリエイティブセンターで行われた講演だった。
何年も前に買ってずっと気に入って身に付けている時計がカスティリオーニによるデザインだと知り合いが教えてくれてから、私の中でカスティリオーニさんはずっと気になる存在だったけれど、結果としてのモノは知ることはできても、どんなプロセスを経ていたのかということまではこれまで全く知らなかった。講演会の中で多木さんはカスティリオーニの仕事を「まるで1行の小説のようだ」と表現されていた。
そのほかにも、
モノをよく見て、観察し、感じ、想像し、蓄え。そして発見した人。
今を生きるあらゆる人にとって本当に必要なモノだけを送り出した人。
現行にあるものの方がよいと感じれば、すぐにそのプロジェクトは取りやめにした人。
そんなカスティリオーニの仕事のプロセスを読み解くための、印象的な言葉をきくことができた。
もう1人の巨匠。ブルーノ・ムナーリのことは以前もこのエントリーでかきました。ある雑誌でムナーリの特集記事を一部担当することになり、とにかく私はここ2週間ばかり、この謎の多いマエストロのことで頭の50%をしめられていたわけです。調べれば調べるほどに収束するばかりか拡散し、新たなムナーリ像が無数に浮かんでくる。たくさんの具が入っている世にもおいしいスープを一気にあじわっている気分。
ご子息のアルベルトさんの講演会をきいて、結果、マエストロへの謎はますます深まっていったわけです。でも本当に温厚でチャーミングな人だったのだなということだけは今回確認することができたのでとてもよかった。ムナーリについては、書ききれないのでまた後日ちゃんとレポートしようと思う。
この2人の巨匠の仕事のプロセスに共通していたこと。
それは、人間がこの世界に誕生してからというもの、数多生み出されてきた道具についての考察でした。
行為には知性がある。
例えば、のこぎり。西洋ののこぎりは押しながら切る。一方日本ののこぎりは引きながら切る。
ひとつの道具をとってみても、そこには文化があり、知性があるのだ。
2人ともあらゆる道具の文化と知性についてとてもよく研究されていたという。
ムナーリなんて、日本の大工さんが使うありとあらゆる道具を来日の際に買い込んだと言うからおかしい。きっと道具の研究から、人を取り巻く環境そのものと人との関係、自らも内包する世界の成り立ちに至るまで、謙虚な姿勢でよくよく洞察した上でものづくりを行っていたのだと思う。だからこそ、いつまで立っても色褪せることなく、人を引きつける魅力にあふれたモノをたくさんうみだせたのだろう。
そしてもうひとつの大きな共通点。それはこの2人の巨匠が決して自分のためにだけ、企業のためにだけ、お金のためにだけの仕事をしなかったということ。もしかすると私が2人の仕事に惹かれている最大の理由は、その無償性に、なのかもしれません。
「カスティリオーニがモノをつくりはじめたのは、戦後まもなく、人々が本当に貧しい暮らしを強いられていた時代でした。その時代にこそ、人の心が少しでも 豊かになるようなものづくりをしたい。そう願った結果デザイナーといわれる仕事をするようになっていった。私たちはいま、モノがあふれている時代にいま す。情報もあふれています。デザイナーという職業が先にあるわけではありません。この時代に本当に何ができるか、どうあるべきかを考えなければならない と思います」
これは多木さんが講演の最後に話された言葉です。(うろおぼえで、間違っていたらごめんなさい)
この締めくくりの言葉を聞きながら、「仕事とは、目に見える愛なり」という最近読んだ本にかかれていた言葉を思い出しました。そして同時に、ものをつくる人たちがこんなふうに、職業の前にある「願い」についてちょっとでも考えるようになったとしたら、世界は少し変わるのかもしれないと考えました。
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